整理される村 大和町史(p316)
高木村
大小区制の成立は、廃藩置県の帰結であった。幕藩制下の錯雑した領主支配を一掃して、明治政府の一元的支配に地方を組みかえるのが、この改正の狙いであった。
もう一つ 一つの村が持っている独自性はとり上げられなかった。村の名前さえ問題にされなかった。どこの村も、一番から番号をつけられた明治政府の一行政区にすぎなかった。従って、この政正を通じて、複雑な行政区域は徹底的に整理された。
高木村は幕政下には、天領旗本領に分れていたが、それが維新政府に引きつがれると、旗本酒井家領は明治元年九月に古賀一平支配地に、引続き明治二年二月に品川県となり、もと天領の韮山県が併存した。しかもその上、なお複雑だったのは、奈良橋村の七軒が高木村の品川県分に入っていたことであった。
廃藩置県後、この地方が一まとめにされて神奈川県管下に入ると、これまで支配者が違うことによって、二分されていた村が、旧天領、旧地頭領の区別のない一村になった。この際、すっきりしたものにするためだったろうか奈良橋村七軒の者は、高木村の支配を離れて奈良橋村に移されることになった。奈良橋村の七軒が高木分に入っていたのは、恐らく旧地頭酒井家が高木村と、奈良橋の内七軒分を支配することになったときに、村が違うからと言って高木と奈良橋の両者にそれぞれ地頭領分だけの名主を置き、別々の取扱いをすることかが頓わしいので、両者を一人の名主の下に置いた、ということが遠因だったろうと思う。
奈良橋村七軒の農民は、奈良橋村とはいいながら、事実上は高木村の農民と共に生活してきたのであった。実際、住んでいる家も高木村の人々の間に混在していたのである。
ところが、明治政府の行政区画の設定は、このような事実上の問題を抜きにして、機械的に組んで行った。明治五年五月、高木村は、旧天領と旧地頭領が合併して一村となるときに、奈良橋村七軒の者を高木村に組み入れることを出願した。結局、この願いは聞き届けられ、七軒の農民は高木村に合併した。錯雑した行政区画は、ここに整理されたのである。
狭山村の成立
同様の問題が、やや遅れて後ヵ谷・宅部に起った。これまで後ヵ谷・宅部両村は、形式的には二カ村に分れていたが、実際には「田畑山林民戸悉皆混錯」と表現されたように、田畑、山林、家々が入り交って存在していた。両村が形式的に分離していることは、村民生活上で差しつかえることが多かった。しかも当時、地租改正の必要上、地図を編製することになり、地番を記載することになった。ここに、両村を一ヵ村として、整理された地番を設定する問題が起って来た。
明治八年二月二十五日、両村の小前一同は、熟談の上、連印をもって、両村を廃止し、新たに狭山村を設ける改称合併願を十一大区十小区会所に出願した。翌三月、神奈川県令はこれを許可し、ここに後ヵ谷・宅部の二村は解消して、狭山村が成立したのである。